クアラルンプール(1)

昨日か一昨日に読んだ部分で、トルーマン・カポーティがこう書いていた。ニューヨークというところは、子供にとって「なんの喜びもない都会」だ。そして旅一般については、「一人旅は荒れ地を旅することである」と書いている。ニューヨークに富を見るために適したレンズは、彼によると孤独ではなく、書類ケースを小脇に抱えたビジネスパーソンの眼鏡でもなく、童心でもない。幼さと若さだけでニューヨークは見えない。どうすればいいのか——「もう少し歳を取り、恋をするようになると、恋人と共有するダブル・ヴィジョンが経験に、生地と形と意味を与えてくれる。」(『ローカル・カラー』)こういうわけだ。確実に四つの眼による、おそらくは一つの心による、ふつう二つの性によるダブル・ヴィジョンは、数多の(数多×2は数多だ)思い出越しに見られたヴィジョンで、数多の土地との比較で明確化されたヴィジョンだということになるだろう。

ニューヨークについてカポーティが書いたことを読む直前、私が考えていたのは次のことだった。つまり、一人旅と二人旅(この場合はAとの旅行)では、どちらが得るものが大きいか。どちらの方がより多くを見れるのか。これは難しい問題で、本質的には、恋愛や他人との共同生活というものが提起する問題と同じ困難をもつ。
というのは例えばこういうことだ : 一人でいるときは大抵の物事を一人だけで考えるのに対し、二人のときには二人で考える。すると価値のあり方が全く変化する。オイル・ライターに求める条件と立体駐車場に求める条件が最初から異なるように、一人での理想と二人での理想は異なる。
理想が異なってくるのは一人での考え方と二人での考え方が異なっているからで、考え方が異なるのは、一人でものを見るのと二人で見るのではそもそもの見え方が(角膜・水晶体のレベルで)異なるからだ。
ダブル・ヴィジョンの眼球は、一人旅に適切な好孤独性ロマン主義的眼球と、共通の素材でできてはいない。ダブル・ヴィジョンの眼球は、安心感、なぜか分からぬ幸福感、あるいは他人といるときの世界が帯びる曖昧さ、こういうものでつくられる。だから知覚されるものの方も、シングルなヴィジョンにおけるのとは異なってきて、夕方の日差しが斜めから明るませている空気があたかも残酷な計画ばかり思いつく独裁者の脳内のように剣呑であることはまずもってなくなる。また海を見たところで、私はどこまででも行けるぞと本当に思えたりすることもない。

もちろん逆に言うなら、ダブル・ヴィジョンの前でしか存在し始めないものが多量にあるということになる。ヴィジョンがダブルになる前後での、対象物の世界の変化は、単に市場で扱われる品物の種類が増すというような変化でとどめられない。というのも、考えてみれば当たり前のことながら、世界はただ見られるためにあるのみならず、世界は世界で視線をもっていて、伝説と同じくらいのむかしむかしに伝説的大恋愛をしたおばあちゃんが乗り飽きていることさえ忘れかけるほどよく使うバスの利用中、若くて恋に高圧になっているのかもしれない女を見かけるときの眼差しに特別な利他心が混ざっているのはそのためであるし、また、土地資源が豊かであるとか住人皆がこの地域に誇りをもっているとかいった理由で幸せな定住を実現できた人々が[自主規制]な二人組旅行者の[自主規制]する姿をホームタウンでたまたま目にする眼差しが冷たくはないのも経験的事実といえる(*この一文は、性に刺さってしまったときに書いたものである。仕事に刺さってしまうと落ち込むが、性に刺さると笑いが止まらなくなる。"刺さる”のニュアンスは察してもらう他ない)。概して、人々というのは夫婦やカップルに協力的である。さらにこれに、ダブル・ヴィジョンの主体(すなわちわれわれ)のほうの心情的特異性—あるいはダブル・ヴィジョンが写る眼球の素材的特異性—が掛け算されてゆく。こうして、二人で旅行しない限り見れなかったであろうものは、増殖していく。

こう考えていてなぜか思い出した、重要とは思えないことを記す。小学校の同級生に、マイケルという人物がいた。田中マイケルという、コロンビア人または日本とコロンビアのハーフで、当時にしては力持ちで仲良しだったと記憶している。そしてもうひとつ、重要ではないだろうことを記す。アジア編の序にあたるここまでの部分を、もう死んだ作家、トルーマン・カポーティに捧ぐ——鳥のように不真面目な気持ちで。

鳥でなくても、太陽は眩しい。他方、洞窟内部や夜間作業での手元を照らすバンド式ヘッド・ライトは滑稽だ。二人旅をすることは、旅をしないこと(どこにも出かけず、日常のなかでまとまった量の生命を消費し終えていくこと)と一人旅をすること(日常がまた自分に戻ってくるのか不明確であることを不安に思わないようにしながら新しい土地へ移ること)のあいだなのかもしれない。眩しくて軌道を外れない太陽と、光の向きの安定しないヘッド・ライトの、中間に位置する光の行為なのかもしれない。そうすると、二人での旅行とは街灯であることになる。なぜかといえば、街灯は電子機器のスクリーンライトやデスクライトよりも明るいからであり、街灯は2.0mよりも更に高くにあるからであり、街灯は夜であれば部分的には太陽の代理をなしうるものだからである。ここで光の行為とは照らすこと、そして土地ごとの照らされた部分に見つけるべきものを出現させることを言う。地球よりダイナミックに昼夜が交替するわけではないけれど、国や社会には簡単に夜が来てしまう(夜だけが続く極夜にはならないが)。そんなとき、世界にとっては愛し合う二人の存在がなくならぬ希望だ。もし彼らが普段の生活圏を少しでも出て行けば、街灯だ。(そうでないなら、フロア・ランプだ。フロア・ランプは部屋をあくまで秘密に照明するだけで言説の対象にならない。)私はわれわれが毎日24時間愛し合っていたとは思わないけれど、ダブル・ヴィジョンがアジアの国々において街灯の便宜を得ていたいくつものシーンがよみがえってくる。

アジア人がアジアを旅行する。アジア人が日本を旅行する。混ぜられた納豆が、ご飯にかかる。トンビが鷹を生む。鶏は鳴き声で朝の到来を告げる。日本を日本人が旅行する。金沢に行って、金沢から東京へ帰る。冬になり、朝には気温が氷点下に割り込む。アジアを、東南アジアを、中央アジアを、日本人というアジア人が旅行する。書かなくてもいい。すれば旅行はしたことになる。だが書かれなければ旅行は書かれた旅行になりはしない。そして移動なくして旅行なく、備えあれば憂いなし、もし仮に仏教やヒンドゥー教イスラム教が100まで分かったからといって、ラオス・タイ・インドネシア・また中国・日本・シンガポールそしてキルギススリランカにおいて繰り返し現れる類似の寺院その他の宗教的建造物群を見ずに旅行し終えるというのは実際にあることではない。アジア人だからといって、そしてアジアの市場はやはりアジアの市場でいつも似たような屋台街に随伴されているからといって、各々の屋台の人気そうなグルメと露天の果実を無視することができないのもこれと同じで、アジアはアジアという原理の局地的リピートに過ぎないのに、なぜかアジア人旅行者にはアジアを旅行することが可能となっているのだ。

東京からマレーシア。首都クアラルンプールに飛行機で行くというと、正確に何時間のフライトだったかは記憶にないが、横方向の移動なしに経線に従い縦へと這っていくイメージで、得した気分のフライトだ。フライトとは飛ぶことで、乗客が乗っている。10人ということは稀であり、100人は乗る。成田からクアラルンプールへは、夜の便で行ったはずである。当時、われわれの一人は正社員をまだやめておらず、残りの一人はフリーターを既に開始していた(この半年前に正社員はやめていた)。よって夜というのは金曜の夜だったはずであり、重いカヌレやブラウニーといえども400gは超えてこないであろうから人が一人で最低100個分ということになり、したがって総計で10000個以上のカヌレないしブラウニーが当便で飛んだことになる。重さ的にはそういうことだ。
ここで思い出したが、出発が成田だというのは正しくない。出発も到着も、ともに羽田空港だった。金曜の夜の羽田空港は、少なくともその日については国際線ターミナルの全体が空いていて意外だと思った。なぜ羽田であったことが思い出せたのかというと、いまも(これをタイプしている本日の午後にも)使用しているCASIO製・白黒の防水時計(バンドは黒一色のラバーバンドだ)をその日、私は出発前に買ったのだったが、その時計がレジで入れられていた袋には水色のロゴが書いていて、これがTIAT(東京国際空港=羽田空港)というロゴだったことには間違いがない。
羽田空港の空間のデザインは比較的落ち着いていて不快さがないが、そういえば時計が入れられた袋の材質およびロゴも落ち着いていて、搭乗ゲートが開くまで待つあいだ早くと時計を出して時間を向こうの時刻(クアラルンプールは東京よりも一時間遅い)に合わせておこうとグシャグシャとやったとき触っていたのは羽田空港の方の売店が使う袋であったことが了解される。
空港というのは空の港と書くわけで、それ相応のポエジーをもつ施設と見なしうる。そしてまた空港は、旅の始まりから終わりまでを一本の直線で表現するとすればそのほぼ両端に現れるものであるから重要だ。空路を使うと、ある国から帰ってきて最初に歩く日本国土は空港の内部なのであって、トイレの様式が日本的でTOTOINAXの文字があるとか、厚くない絨毯が音を半端に吸っている様子が日本のオフィスを思わせるとか、あるいは単に広告や掲示の大半が日本語であるとか、まずそういうところから母国の実体に触れていくというのは好ましかろうとそうでなかろうと実際上体験を強いられる事実だ。
不思議なことがある。
日本の実体と日本の空港のあいだには共通点が多い。しかしドバイの空港と日本の空港のあいだにも共通点が多い。前者の共通点というのは同じ島のうえで存在しているもの同士の共通点であり、後者のほうは組み立てに際して参照されたコンセプトの共通点、理念と用途そしてより具体的には工事業者と制作方法の共通点だと思うのだ。そうすると、日本の空港は日本に近いのか、それとも日本の空港はドバイ国際空港に近いのかわからないことに気がつく。空港については、検討すべきと思う点がまだあるが、このまま書いてみたとして上手に考察することもできなさそうであるからここで区切ろう。

ともかく重量におけるブラウニー換算でいって一万個以上分のブラウニー・ケーキたちが、フライデーナイトに、KL(クアラルンプールの略称)へと向かう。ボーイング社製のものにせよ、エアバス社製のものにせよ、飛行機はとても落ちにくい。0.0009%というのが全世界の航空会社における運行便データを平均し算出された旅客機の墜落率であるらしいから、確率論的にいえば、この便で0.09個のブラウニーが落ちてしまうことが見込まれる計算だ。
エアアジアX(航空会社)の、予約したシートに座る。赤がモチーフの、おそらくは合皮製であるヘッドレストが汚れ(垢の類い)で黒ずんでいる。記憶が確かなら、エアアジアの国際便において食事は出ないのが通例だ。現金を使い買うことも不可能であり、食事が運ばれていくのは事前に機内食予約を済ませていた者たちのもとへのみである。私は、低価格の飛行機のこういうところがどちらかといえば好きだ。飛行機というのは、狭くて、身体に負担をかけ(身体がキツいのは移動が速すぎるせいもある)、汚く(ビールの染み・スナックのカス)、著しい不自由を長時間強制される、最悪な移動手段だ。旅行を終えるたび、もうこんなものに乗らないぞと思い直すほど最悪だ。わざわざ使うのは、速いから、安いから、他の手段で行きづらいところへ行けるからである。(もっとも、ビジネスでの利用者にとっては話が異なってくるだろう。飛行機は行きたいところへ行くためのものというよりは職場の一部であるかもしれないし、ひとによっては通勤電車やオフィスビルに幾機か存在している高層階行きエレベーターであるのかもしれない。この場合、飛行機に対する自由選択は存在しない。)
そういうわけだから、「空の旅」がその高価さと革新性によって光輝を帯びていた半世紀以上の昔をいまだに真似し続けている航空便に乗ると、ゾウに踏まれたように気分が曇る。「快適な空の旅」やカッコいい制服は、カッコよくない。カッコよくない制服・システム・機内アナウンスは—定刻から遅れず目的地で我々を解放してくれるなら—カッコいい。
グッド・モーニング、マレーシア。マレー語でおはようはselamat pagi(スラマッ・パギ)だと機内で覚えた。クアラルンプールに到着。こちらKLIA(クアラルンプール国際空港)です。太陽の南中まではまだ時間があります。水洗トイレの水流は弱めですので、紙は流さないで下さい、特急電車KLIAエクスプレスにとりあえず乗り込み市内へと移動した。

クアラルンプールはKuala Lumpurであり、Kualaが「交わるところ」Lumpurが「泥の川」とそれぞれの意味をもつそうであるから、一つの都市名としては「泥の川の合流地」を意味するということになる。
この町の歴史はスズ産業と切り離せないとされているということが、鉄道のマスメッド・ジャメ駅からほど近いクアラルンプール・シティ・ギャラリーに行ってみるとよく分かる。

有名な「I♡KL」モニュメントが立っていて観光客がたえず写真撮影をしているあの場所は、このギャラリーの正面に実は位置する。そしてモニュメントの横、ギャラリーの庭の内側には移動式アイスクリーム屋が出店している。もっとも、大仰にギャラリーといってもその一室にあるのは貧相な説明パネルおよび写真が数十枚のみである。また別の部屋にあるのは、地元の美術系学生の卒業制作の展示(半分はモダンアートのおそろしく稚拙なモノマネでしかない)二十点ほどといった具合だ。トイレは汚く、紙がない。用を足したあとの臀部のクリーニングについて言うなら、どうもマレーシアに限らず東南アジアのいくつかの国々では、どうせ流せぬ紙を使うより、トイレ備え付けの高圧ハンド・シャワーか手桶の水でジャバジャバと洗う方が好まれているようだ。そういうわけで、このギャラリーにトイレットペーパーというものは存在していない。
こんな具合であっても、ツアー会社が観光客を連れて行く場所として選ぶのは事実このギャラリーであり、したがって利用者の人数と施設のグレードには不均衡があると言わざるを得ない状況だ。だからこのギャラリーをオススメできるとすれば、「I♡KL」と一緒に写真に収まるために行列したいひと、もしくは(服装からしてあれは日本人だったと思うのだが)妙齢の上品な男性達が紙のないトイレに慌てているのに出くわして彼らと気まずい目配せを交わしたいひとに対してということになってくる。

ともかく、だ。このギャラリーに行くか、あるいはより賢い方法としてはガイドブックを参照するかしてみると分かるのは、次のことである——いや、スズ産業とクアラ・ルンプールの成り立ちとの関係を述べてしまうに先立って、つい今しがた無視できない大きさに達した想念があるのでそちらのことを書いておきたい。
つまり、旅行することそのものについても言えることだが、紀行文などを書くことには病的な気怠さが付きまとうということである。あくまでこれは、個人的な事情でしかないのだろうか?自信はないが、違うと思う。ふつうに暮らし、ものを食べては寝るだけで我々の欲望は自家中毒すれすれのラインにあるというのに、普段行かない場所に行き、普段見ないものを見つけたいと望み、普段食べないものを食べたいと思わねばならない旅行というものは、節度を超えた、明らかに不自然な欲望を必要とする。ましてやその旅行を振り返り、なおもその過去から書きたいものを見つけ出すことを欲するとなれば、これはもう簡単に偏執的永久運動になってしまう傾向をもつ。旅先で、ああおれは今もう何も食べたくないのだと気が付き、食事を抜かしてしまえと決意する、三日目か四日目のあの起床直後の正直さを頼らなければ、救いは来ない。思うに、多くの紀行文というものが最後まで読み通しにくいのは作者が自分は食傷気味だと認めないからである。旅行など飽きたと、見ものなど要らないと、そして終えた旅行については何も思い出したくないと、派手な照明と絶景は心臓に不要だと、言ってくれないからである。
紀行文には様々なものがあり、一方に個人的ライフワークとして着実に書きためられたものがあれば、他方には出発前から雑誌や研究機関での発表を前提にしていたものもある。そしてどちらもの多くは、興の乗るに任せて、つまり純度の低い欲望によってなんとか書き切られてきたものであると見えてしまう。

前世紀の後半、1985年に、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズがこんなふうに言っていた。我々にコミュニケーションは欠けていない。逆に、コミュニケーションはありすぎるのだ。現在求められている権利とは、何も言わないで済ませる権利なのではないか。「私たちを疲弊させているのは伝達の妨害ではなく、なんの興味もわかない文」(『記号と事件』)たちなのだから、というふうに。そして彼によると、ある文が興味深くない原因は、内容が言い古されたものであったり愚劣であったりするからだということである。
好んで読んでいる作家たちのことをここで考えてみると、彼らはいずれも各々の文体を持っており、その文体という秩序に従ってなされた記述は、惹起する意味が多くまた知覚させる感覚が強いという二つの点から、平均的な文章より濃密であると言える。文体があるということは言い方があるということであるから、世で使い古された言い回しを彼らが意図なく流用することはあり得ないように思われる。飽きない、というのが結局は彼らの文章を読んで面白い理由だ。
では、どうすればそういう文章が書けるのか。こんなふうに想像してみる。つまり、正しい心がけ、長時間の努力、そして個人の才能が揃わなければいけないのではないか。どれかを欠いては、文体が生まれない(もっとも、文体なしのいい文章だって生まれうる。草稿をマリネ液につけこんで冷蔵庫に寝かせておく方法などが思いつく)。努力、といってもどうすればいいのか?ひとつには、手紙や紀行文に手を染めてみることが役立つのではないか。手紙には相手があって、紀行文にも記述される対象の土地がある。相手や特定の土地といったそれぞれに唯一無二なものを対象とすることで、文体はその都度必要な変化を迫られてくるということがありそうだ。つまり、サンフランシスコは記述されるに際してサンフランシスコ的文体を要求するであろうし、友人に久しぶりの連絡を取ろうとすれば文体は奇妙に真新しいものになるはずだ、ということである。

私は私、あなたはあなた、昼間は昼間、マヨネーズはマヨネーズ、そしてクアラ・ルンプールはクアラ・ルンプールだ。KLと略記してもここについては変わらない。さて、話はKLとそのスズ産業の関わりということになる。
時は19世紀、と聞いている。中国人たちが、一挙にかそれとも次第次第にであったのか、マレー半島のスズ鉱山を採掘しにやって来た。掘り出した鉱石は、洗われる必要がある。中国人たちは、鉱山の近くで鉱石を洗った。スズになる幾段階か前の石くれが、来る日も来る日もクラン川に浸された。鉱山が違えば通りゆく河も変わるので、土だらけの石くれをゴンバック川もまた洗い続けた。やがてクラン川とゴンバック川は泥水を流す川に変わった。
ところで、中国人も24時間働くのではない。移民にも移民なりの生活があり、家族があって、睡眠がある。中国人労働者たちは、鉱山から川沿いに下ったところに集落をなした。どことなく江戸の町並みを思わせる街道と平屋でできた集落だ。集落のそばには、川が川と交わる地点があった。これがクラン川とゴンバック川、つまりは二つの泥川なのだった。この歴史的事実こそ、1980年代以降も急速な経済発展をとげているかの街が、クアラ・ルンプール(泥の川の交わるところ)と呼ばれるようになった理由であるという。

クアラ・ルンプールは、中国人により開拓されたのち、イギリスによる支配を経験し、さらに第二次世界大戦中には日本軍の占領するところとなった都市である。
マレーシアはイスラム教国であるから、当然のごとくモスクが少なくない数建っている。本当にふたつの汚い川が交わり続ける「クアラ・ルンプール」その場所にも建っている。そのモスクはマスメッド・ジャメといい、河の合流地のデルタをギリギリまで敷地としている(よって先端は水上の合流地点へ向け突き出ているかたち)。

交通網の進化・発展は目覚ましく、走行するといきおいジャングルクルーズらしく見えてくる高速道路は拡張工事中であり、”Uber”に類似の配車サービス”Grab”でタクシーを呼ぶことは市民にも普通となっている(そして、Grabにドライバー登録しておき、仕事が終わったあとでもう一稼ぎすることも普通になっている)ようである。また、交通全体の進化・発展に従って、都市名を冠した鉄道駅「クアラルンプール駅」は見捨てられていっているように見える。事実上、鉄道交通の中心となっているのはクアラルンプール駅ではなく、都市名に「セントラル」をプラスした駅、つまり2001年に開業した「KLセントラル駅」の方である。空港と市内を結ぶKLIAエクスプレスが停車するのはこの駅だ。KLセントラルの駅舎は五階建てであり、飲食店があり(帰国日にはここの1Fで念願の麺料理、パンミーを食べた)、ショッピングモール直結で、広告が大型ビジョンに映されている。デジタル・サイネージを利用した宣伝も定着していて、エスカレーターを1F分使えば「みんなでGrabを」の広告が10回見れる。斜めに上がる我々に合わせて、広告も配置されているからだ。
近代化というよりは現代化と言った方がいいのかもしれないこうした変化で、クアラルンプールは自分らしさを失っているかというと、あくまで一旅行者の観点でこたえれば、断然ノーだと思う。というのはまず、見捨てられつつある旧い「クアラルンプール駅」の設計者は、マレー人ではなくてイギリス人であったらしい。また、この都市にとって最もシンボリックなはずの土地にある国教建築(前述のモスク)たるマスメッド・ジャメを設計したのもなんとこのイギリス人だったという。だから、「過去を捨てる」という表現をするとして、捨てられるその過去がイギリス人的過去だった。少なくとも、マレーシアが目に見えてマレーシアとなった19,20世紀という比較的近い過去についてはそうだった。とすれば、1957年のイギリスからの独立後、マレーシアは(クアラルンプールは)ようやくマレーシア的(クアラルンプール的)なマレーシア(クアラルンプール)へと晴れて変身・前進を始めているのではないかと考えたくなるが、これは実状と違うと思われる。強国の支配を抜け出した国家に往々にして見られる<本当の過去>を見つけ出そうという運動—例として、中央アジアキルギス。1991年にソ連から独立した後、キルギス人のリーダーたちはキルギスキルギスたらしめるに足る<本当の過去>を口承文学『マナス』の伝統に急いで求めたようであり、首都ビシュケクにはマナス大通りが、市内の公園にはマナス王像が誕生し、一般的キルギス人には国家というものがなんであるかのイメージもまだないというのに1995年には”マナス1000周年”が祝われ、国内唯一の国際空港はマナス国際空港と名付けられている—にマレーシアで我々が触れたと感じることはなかったし、その種のアイデンティティ確定運動の痕跡とおぼしきものも見なかった。
仮に、マレーシアが自らのイギリス統治時代を完全に忘れられたとしても、クアラルンプールの歴史的地層のもう一段古いところから現れるのは中国人たちであり、クアラルンプールは都市名自体を彼ら中国人に負っているのであるから、明らかになる事実は、純粋なクアラルンプールとかマレー人たちの本来的マレーシアというものは存在しなかったということであるはずだ。現在のマレーシアは多民族国家として知られ、マレー系が半数以上、中華系が四分の一、インド系が一割弱、その他が先住民族および上記全ての亜種(混血)という構成だ。ちなみにこの異国に根をはった中華系移民の末裔はババ・ニョニャとの呼称をもっており、陶器や刺繍や料理の分野で独自のババ・ニョニャ文化を発達させた(詳しくはこちらを参照)。
国家を鳥類の一種と見ることにすると、マレーシアという中型の鳥は、多民族国家である以上、複数種類の羽毛がある鳥ということになる。そしてクチバシがあり、足がある。パーツだけ見ればとてもまばらで、統一がない。これで飛べるか、もちろん飛べる。そして鳥のトータルな目的は飛ぶことだけに収まらず、餌を食べる。そして、ほとんどの鳥が歩きさえする。飛ぶだけが鳥ではなくて、白くない羽毛も翼に混じる。それどころか、一般に知られているのは、鳥の翼は前脚の進化した結果だということである。よって、現在における多様性(あるいは非-純粋性)がどんな機能を生みうるか、予断できず面白い。もう一度マレーシアの歴史に話を戻そう。スズ目当ての中国人のもっと昔、マレー半島には、大航海時代のオランダ人・ポルトガル人がいたのであった。そしてオランダ・ポルトガルの地層でさえ最下層ではなく、このさらに下の地層に埋まっているのが13世紀のアラブ商人とインド商人(イスラム教を伝えたのは彼ら商人だと言われている)なのである。

結局のところ、マレーシアというひとつの何かがあるなら、それは(キルギスにおける『マナス』誕生の瞬間のような)過去の求心的一地点に基づくものではなくて、とはいえ現在になってやっと生成し始めたものなのでもなく、常に存在してきたアルデンテのパスタである他ないと考えられる。どの国に支配されていようが独立していようが彼らは彼ら—といっても19世紀のマレー半島に住む人々と21世紀のマレー半島の人々は人種からして同じではない—、マレーシアはマレーシアであり、イスラム教やイギリスの近代技術や現代といったソースを絡めると一応の完成を見る微かに生煮えのパスタだ。

パスタがソースを前提にするように、彼らも支配者、命令を出す者を前提としているのではないかとマレー人を見ていると思えることがある。
クアラルンプール市内には、メダン・トゥアンク駅から徒歩で数分の距離に大型のAEON(ここ)があって、紳士/婦人用品コーナーで私は、カエルと魚とフクロウがひとつになった動物をモチーフにしたアクセサリーを買った。会計をお願いしたのは店長さん(胸部の写真付き社員証にはそう書かれていたと思う)で、典型的なマレー人的風貌をした彼は「いま行くよ待ってね、いま行くよ待ってね」とニコニコ笑いながら、しかし決して走らず、ゆっくりとゆっくりとレジまで来てくれたのであった。このひとに限って言えば、命令を下したり物事を変えようとすることは面倒ごとに属する行いで、何かを強制されたり頼まれてやる方が好きなのだと見えた。店長であるにも関わらずこうである彼のおかげで、私の中には、マレー人というのは何かについていく方が性に合っている人種だというイメージが生まれた。そしてこのイメージを短期間の滞在の中でその都度経験する事柄と照合していったが、偏見であるとの結果は一度も出なかった。
文章を読むとき、我々は文章を読んでいるときもあれば、そこに自分自身を読み込んでいることもある。同様に、旅行者は現地を見るが、(カポーティのダブル・ヴィジョンのところで書いたごとく)同時に見られてもいる。だから、私の見たマレー人は、日本人である私を見るマレー人の姿だったことになり、その像に遠い太平洋戦争や日本の経済的強さが反映していなかったかどうかはもちろん分からない。それでも、マレー人は温和でカエルめいてキュートだという点では少なくとも誰もが一致しうるのは間違いないだろう。

話の対象をアジア全体に変えてみる。
私がアジアを好ましく思うのは、あるいは好ましく思おうと試みているのは、(第一に)馴染みがあるからである。ヴェネチアの雑踏がどこまでも観光地的喧騒であったのと異なって、アジアの喧騒は(オートバイの異常なうるささをのぞけば)われわれをはじき出すことがない。
アジアの喧騒は、われわれの喧騒であり、われわれの喧騒だということは単に前方にあるのみならず背後に回り込み後ろからも囲い込んでくる喧騒であるということだが、台湾の夜市、クアラルンプールの路上デモ—KLセントラル駅から少し歩いたインド人街の入り口あたりで盲人の待遇改善を訴えるにぎやかな行列が通った—、急な降雨に東京・吉祥寺の人々がざわつく様子、バリ島ウブド郊外"Tampaksiring"を練り歩くセレモニーの楽隊—少年たち4,5人からなり、楽器ごと彼らを荷台に積み込んだ軽トラが行進の音響面を彩る—、これらはこの点で変わるところがないようである。
(日本がアジアだというのは、しかしどの程度正しいか問題とならねばいけないだろう。文化的影響関係を一度忘れて、まっさらな心で日本的現象を知覚した場合、日本の個性とは、アジアであるということと並んで、島国であることだったと思われてくる。日本は、タイよりはタヒチ島に似ているのであって、アジアだけに属するのでなくポリネシアでもあるということだ。真面目な話。)
別の視点からするとアジアを好むのは、あるいは好ましく思おうと試みているのは、(第二に)アジアは知性的原理を放棄するらしいからである。マレー人にマレー人的な、そしてこの紀行文が次に向かうであろう台湾の台湾人に台湾人的な原理がないということではない。しかし、彼らの従う原理は知的なものではないとどうも感じる。もし原理というのが論理的に—つまり知性にとっての秩序の中で—何よりも先行するものの謂いであるとするなら、奇妙な物言いにはなるものの、彼らの原理は原理的でない。そう思う。私は、アジアの原理は原理的でないと主張する。
ある場所を歩いていて、ここにマレーシアの原理があるかないかということは何となく言える。しかし”ある”方のところを歩いていても当の原理がどういうものか明晰に言うことは難しい。それは住んでいる人々が彼らの風習の力を、法律の条文や思想や計算に基づいてつくり上げてこなかったからであり、知性に育まれず成人を迎えた原理をあとになって知性が読み解こうというのには無理があるからだろう——いや、ここで書いていることが正しいかどうかは別として、一部を見て全体を判断するようなこのやり方は間違っている。誠実さを欠くし、世界の見え方をつまらなくしてしまいかねない。アジアについて考えを述べるのは、まだ当分やめておこう。

話は変わるが、マレーシアに雪は降らない。一年を通じて月別の最高気温が30℃を下回ることはなく、熱帯気候に属するがゆえ最低気温も18℃を割らないのだから当然だ。実際の最寒月平均気温は23℃ほどであるようで、ヤシの木は余裕で生育できるし、(...)